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開発[編集]

かつをどりの開発は、1935年昭和10年)12月に萱場製作所の社長だった萱場資郎が陸海軍の航空関係者へ郵送した「成層圏飛行機申言書」に始まる。これはカツオドリイカにヒントを得た無尾翼高速ジェット機の開発を進言するものだった。

これに興味を示した陸軍参謀本部石原莞爾大佐らの働きかけもあって、1936年(昭和11年)1月に陸軍の出資によって萱場製作所が5年間でジェットエンジンの開発を行うことが決定し、萱場製作所内部にジェットエンジン搭載航空機の開発を目的としたKF研究課が設置された。KF研究課には東京帝国大学航空研究所小川太一郎工学博士と中西不二夫工学博士、石川政吉工学博士のほか、嘱託として日野熊蔵退役陸軍少佐が参加していた。

その後、萱場の提案を受けて日野が数十種類の無尾翼機のペーパーモデルを製作し、1936年末に室内で飛行試験を行い、良好な性能を示したペーパーモデルをもとに航空研究所の木村秀政助教授が無動力の有人試験機を設計することになった。

HK-1[編集]

木村による設計は二ヶ月ほどで完了し、この機体は日野熊蔵のイニシャルをとって「HK-1」と名付けられた。また、「萱場一型」とも呼ばれていた。製造は津田沼に所在していた伊藤飛行機製作所に依頼され、1938年(昭和13年)2月末に完成した。

機体は高アスペクト比の全翼滑空機であり、上反角つきの後退翼と1枚の垂直安定板を有していた。一〇式艦上戦闘機(民間への払い下げ品)や自動車による曳航離陸のほか、ゴム索によるカタパルトからの発航も可能。操縦席は単座・開放式、降着装置はスキッドだった。

当初パイロットは伊藤製作所の安岡駒好主任操縦士が務めていたが、数回の飛行の後に舵が利きにくいという理由からパイロットを降り、陸軍航空技術研究所の飛行訓練生だった島安博二等飛行機操縦士に引き継がれた。萱場製作所による本格的な飛行試験は柏飛行場にて1939年(昭和14年)9月6日から開始され、1940年(昭和15年)4月16日までの間に島の操縦で182回の飛行を行ったあと、陸軍航空本部に引き渡された。しかし、陸軍側の初飛行の際にテストパイロットであるN少佐[1]が無尾翼機の機体特性を理解せずに搭乗し、着陸時に地面効果でなかなか着陸しないのを強引に下げ舵を取ったため、機体は前部から墜落し大破した。

諸元(HK-1)全長:3.50 m 全幅:10.00 m 全高:1.80 m翼面積: 14.0 m2自重 :120 kg滑空速度:85 km/h

  • 乗員:1名

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